人生転換 2001年3月15日出版 大島敦著 全日法規出版
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現在、大島事務所では大学生のインターンを受け入れています。事務所で働いた彼らの感想がよせられましたのでご紹介します。
大島あつし事務所のインターン生活は私にとって本当に有意義でした。現実の政治に対して親近感を持ち、興味をもって学んでいけるようになりました。実のところ、私は政治学科に属していながら、国内のニュースよりもむしろ国際的なニュースにばかり目が言っていました。
そして、こんな私を変えてくれたのが今回のインターンでした。議員インターンは、私に生の政治を垣間見せてくれました。私は代議士や事務所の方々があんなに体をはって活動をしているのを知らなかった。わたしは自分の選挙区の現状を把握するために、代議士が自らの足で地域を回られていることを知らなかった。私は代議士が自ら問題把握するために積極的に民間の会社に赴き、ご自身の未知の分野について説明を受けるのを知らなかった。「ああそうか、本当に私は何も知らなかったんだ。」そのことを大島事務所ではしっかりと教えていただきました。
けれども私の意識が変化したのは、ただ単に知識が増えたためだけではありませんでした。代議士も、事務所の方々も、本当に親切で、親しみやすい人達でした。私は生の政治現場の中に、暖かい人間関係を見出すことが出来たのです。大島事務所は活気に溢れ、私達インターン生にも常に何かを教えようという姿勢で接し色々な話をしてくださる人達ばかりでした。本当に有難うございました。
(Fさん 法学部2年生 2009年大手放送局に入社)
大島事務所では、大学生が春休みや夏休みに企業などで実習生として働けるというインターンシップに応じて、この8月と9月の2ヶ月間、大学生7名(男性4名・女性3名)を受け入れました。大島あつしも学生時代にアイセックという機関のインターンシップを利用してドイツの電力会社で働きました。その経験が非常に役に立ったので、ぜひ実社会を体験してもらいたいと、大学生に働く場を提供したのです。インターン終了後、第6区総支部長大島あつしは、大学生たちと意見交換を行いましたので、掲載します。
R君(教育学部4年生)なぜサラリーマンから政治家になろうと思ったのですか?
大島 大学卒業後、鉄鋼会社に就職して14年、転職して生命保険会社に5年いました。その間、しだいに「戦後の日本人は家族を犠牲にしてまで一生懸命に働いてきたのに、ヨーロッパの先進国のように豊かになっていない。今なお日本が貧しいのは政治がおかしいからだ」という憤りを持つようになりました。そんなある日、たまたま新聞で見つけたのが民主党の候補者公募の記事です。読んだら、政治家になって日本の政治を立て直したいという想いが一挙に込み上げてきました。2000字の論文を書いて応募締切日ギリギリに出したところ書類審査に受かったのです。後で聞いたところによると、564人の応募があって面接を受けたのは100人、さらにそのうち50人が候補者として残ったそうで、最終的には17人が公認候補となって衆議院総選挙に立候補しました。
とはいえ、候補者に受かった後も総選挙に出るべきかどうか、かなり逡巡しました。祖父と父も選挙で大変な思いしたからです。県議選や市長選でさえもそうだから、総選挙に落選したらとんでもないことになってしまうと思っていました。それでも、周りの方々のお陰で公認をもらうことができたとき、天命を感じ、無私でやり抜こうと決意しました。幸いに私は、候補者公募で立候補し当選した3人のうちの1人になることができましたが、当選したのは、私を支えてくれた多くの人たちの善意の賜と実感しています。
K君(経済学部2年生)企業に勤めた経験で今、政治に一番活かせたのは何ですか。
大島 すべてだと言えます。私は会社に入ったとき、本当に仕事の腕が悪かったのです。しかし、会社の中で育てられました。たとえば、計数処理能力というのがあります。今、国の予算書を見て、どこがポイントなのか、あるいはどこに間違いがあるのか、ということが分かるのは企業でさんざん鍛えられたからです。 鉄鋼会社に入って最初の3年間は京浜製鉄所の現場にいました。そこで、現場の作業長や工長をはじめ現場の人たちと一緒に働いたのですが、最初は、大学を出た若い社員が偉そうなことを言っても、現場の人は誰も聞いてはくれませんでした。しかし、1年間、ヘルメットを被って工場の中で一緒に一生懸命働くと、現場の人は「まあ、大島の言うことも聞いてやってもいいか」と思ってくれるようになりました。それは政治の世界でもまったく同じで、自分から率先して汗をかかないと人は付いてきません。 本社に転勤して計数処理の得意な課長の下に付いたら、計数処理はもちろん資料の見方も習いました。その課長から「大島君、この資料の目的は何だ」と言われて、そこで私は「資料には必ず目的がある」ということに、気付かされたのです。だから今、官僚が私のところに資料を持ってきたとき、もし官僚が資料でごまかそうとしたら、ごまかす目的の資料だということはすぐに分かります。
ドイツでの海外駐在のときには、上司の次長が部下の私を指導してくれました。国内にいると30代か20代後半の係長が部下を指導するのですが、海外だったから40代の次長が直接私を指導してくれたのです。その人はとても細かいところまで気が付く人でしたので、気配りの大切さを教わりました。
生命保険会社では営業でいろいろなところに伺って、人との付き合い方を勉強させてもらいました。企業で教わったことを挙げればキリがないのですが、企業での経験は全部、政治家になっても活かされているし、政治家になっても仕事ができているのは企業で育てられたお陰だと思っています。
Tさん(経済学部3年生) 民間企業のサラリーマンから政治家を目指すというとき、もし私が奥さんの立場だったら、今の安定した生活がなくなるのだから反対すると思います。そういう問題はなかったのですか。
大島 結婚するときに妻に「貧乏になることがあるかもしれないが、それでもいいのか」と訊いて、「いい」という了解だけは取っておいたのです。男性でも女性でも何か事を起こすときには貧乏になる恐れがあります。それは政治でも実業の世界でも同じです。実際に妻はくよくよしない性格で、体力もあるので非常に助かっています。 政治家になると、やはり経済的に窮屈になり貯金もできません。私は政治資金を集めていないので、年収のほとんどは政治活動費に使ってしまいます。だから、政治家は経済的にけっして報われない仕事だと思います。世の中を動かすこともある分、責任はきわめて重いし、日々決断を迫られます。政治家の先輩から「政治家の一年間は10年分に値するだろう」と言われましたが、そのことは痛感しています。
F君(法学部2年生) 政治をやっていて充実感があったときはどんなときですか。
大島 一番充実感があったのは、自分がずっと解決を働きかけてきた「谷間問題」(国民健康保険に加入できない会社役員や自営業者に労
災保険も健康保険も適用されないという問題)で、厚生労働省の課長がしっかりと動いてくれてこの7月1日に通達が出た瞬間です。 民主党は国会に法案をたくさん提出するのですが、野党だからなかなか国会で通りません。 しかし、この谷間問題の通達が出た瞬間には「世の中を変えた」という充実感が込み上げてきました。この通達で影響を受けるのは全国に75万社もあるです。そのように多くの企業のお役に立つことができたのはまさに政治家としての醍醐味だと思いました。KSD(ケーエスデー中小企業経営者福祉事業団)の汚職問題やSSK(佐世保重工業)の補助金不正受給問題で疑惑を追及して、国会議員と役人に責任をとってもらったこともありましたが、そのような処罰を加えても後ろ向きな気がして充実感はありませんでした。
やはりこの谷間問題のように自分のテーマを追いかけて国会での質問や役所への働きかけをしたことによって国を動かし、その結果、世の中を変えたという場合のほうがはるかに充実感がありますね。
Oさん(経済学部3年生) 私たちのような若者へのアドバイスを。
大島 友人は大切にしたほうがいい。自分が今日あるのも友人たちのお陰です。年上の同期の議員からこう言われました。「1年間に1人でもいいから親友をつくっていくこと、20年経てば20人の親友を持てる」。ただし、学生時代の友人関係は特別だと思います。学生時代から付き合っている友人とは損得関係がありません。政治家の友人だと、政治家としての損得が入ってきますから。いずれにせよ、一生付き合える友だちを持つと人生は本当に豊かになります。当たり前のようですが、今それを強く実感しています。
Yさん(国際総合学科3年生) 昔の人は自分の利益以外に日本の利益も考えていたと思うのですが、今の若者の多くはパブリックとか国家に対する責任について何も考えていません。こうした点についてどう思われますか。
大島 阪神淡路大震災ではボランティアに出掛けた人が多かったですね。そういう姿を見ると、まだまだ若者も捨てたものではないと思います。今の若者が豊かに育っているからこそ、大変な目に遭った人に救いの手を差し伸べる余裕があるのかもしれません
。
ただ、全体的に見れば、日本人は公的な意識が希薄です。戦前の日本は太平洋戦争に負けるまで小さいながらも独立を守ることについて自分で判断していました。けれども、その結果、とんでもないことになってしまったので、戦後の日本では「方針がないことが国の方針だ」ということになったのだと思います。外交でも米国に依存してしまいました。したがって、今、日本に駐留している4万5000人の米兵がいなくなると、日本は自分の国を自分で守るための国際的な枠組みというものを真剣に考え始めるのではないでしょうか。そして、自分の国を自分で守るということになれば、いろいろなシステムも変わってくるでしょう。
M君(経済学部2年生) 今後、どのような政治家になりたいですか。
大島 政治家というのはつねに走りつづけないといけない職業だと思います。目標を決めたらそれに向けて人を巻き込みながら走り続ける。政治家への期待もそこから出てくるし、逆に言えば、走ることをやめたら期待がなくなって、人も付いてきません。だからまず「つねに走り続ける政治家」ですね。しかし一方では、いつもごく普通の感じの自然体でいたいとも思います。そういう政治家も1人くらいいてもいいのではないでしょうか。
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若手サラリーマン向きの雑誌に掲載された記事からの転載です。
国会議員のリレーコラム 第2回
■サラリーマンから国会議員に。思い切った転職だと思いますが、どうして決心なさったんですか?
「サラリーマンが恵まれていないからです。こんな世の中はおかしいと思った。かつては土日も返上してこれだけ一生懸命働いて、なぜ老後の心配をしなければならないのか。政治がしっかりしていれば国民が報われると思ったのです。」
■そして国会議員になった。なってみて、自分は向いているな、と思いますか?
「痛みがわかるというんでしょうか。サラリーマンを19年もやっていたわけですから、いいときも悪いときも知っている。努力しても報われないサラリーマンは世の中にたくさんいますからね。そういうことは重々承知しています。ですから決して独善的にはならない。このことは国会議員にとって大事なことだと思います。そして、営業の仕事もやっていたので論理的な話の組み立てができるというか、その人の立場に立って物事を話す癖がついています。国会質問も政策論となるとその話法で話を進めて、大臣が『そのとおり』と言ってくれたりもします。」
■最後に、今後はどのようなことをやっていきたいとお考えですか?
「1995年に最初の会社を辞めたとき、日本の社会保障制度は将来的に破綻するだろうという気づきがありました。それで社会保障を通じて仕事をしたいと思い生命保険業界を選びました。その後、国会議員になり、延長上で厚生労働委員会でも同じことをやっているわけです。そういうストーリは崩したくないですね。誰もが一生いきていてよかったと思える環境を作るのが目標です。」
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有権者への公約を議員立法として具体化するために、これからの働き方の基本政策となる求職者支援法案を作成し、本会議場で法案の趣旨を説明する |
予算委員会、郵政民営化特別委員会、行政改革特別委員会、テロ対策特別委員会などNHKによりテレビ中継された国会の質疑で、首相や大臣と論戦を交わす |
各国の政治家との信頼関係が平和を構築する。インドネシアを訪れ、ユドヨノ大統領と会談し、両国の友好関係の重要性につちえ確認する
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太陽光発電の最先端技術について説明を受ける。世界で我が国が新時代の先頭を走るために、産業構造をいち早く新しい環境に適合させる政策を進める |
台風の翌朝、荒川付近の被害状況を現地調査。早めに河川事務所にポンプ車出動を要請した。今後も台風、ゲリラ豪雨には迅速に対応していく
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地元メーカーを訪れ技術開発について意見交換する。ものづくりは国の競争力の根幹であり、品質のためには努力を惜しまない中小企業がそれを支えている
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地元の福祉祭りをを訪れた際の盲導犬とのワンショット。障がい者が職場に慣れるためには、訓練されたジョブコーチの育成が急務である |
国会終了後は毎回必ず国政報告会を開催し説明責任を果たす。参加された皆さんの活発で有益なご意見が政策立案の際に大いに参考となる
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テレビ朝日スーパーモーニングに民主党次の内閣 内閣府担当大臣として平沼赳夫議員、猪瀬直樹氏とともに出演する
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農家の皆さんと自給率向上について意見交換を行う。事故米の転用や食品偽装などを防ぎ、食の安全を守るためにも政治の行政監視を徹底する |
ささら(獅子舞)を見学し地元固有の伝統文化の維持・振興を誓う |
子供たちと一緒に田植えをして汗を流す |
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| 世界政治の巨星、マハティール、リー・クワン・ユー、ワイツゼッカーと会談 |
アスベスト対策の党内議論をリードして法案をつくり国会に提出 |
タイのスラム街の子供たちを支援しているボランティアと意見交換 |
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| ものづくりは日本の礎、地元メーカーの工場を見学 |
地元の商店街が月1回テントで出店する「あきんど塾」を見学 |
障害者自立支援法の審議に先立ち小規模作業所を視察 |
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| 地域のNPO法人育成のために地元のスポーツ関係NPOを視察 |
民主党中小企業局の筆頭次長として全国行脚の講演を行う |
寒風が吹く大雪の中で街頭に立って自らの主張を熱く語る |
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国会見学をする有権者の方々に国会の機能について説明 |
大学でのシンポジウムで田原総一朗氏と日本の課題について討論する |
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大島あつし夫人インタビュー このページのTOPへ HOME
◆大島あつしと結婚するまで
昭和39年、東京杉並区で生まれました。3人姉妹の長女です。東京の商業高校に入り簿記1級、算盤2級の資格を取り、先生の勧めでNKK(日本銅管)に就職しました。
大島とはNKKで知り合いました。そして、結局、大島が選挙に出るというので私も会社を辞めたわけですが、もともとは定年までNKKにいようと思っていたのです。大らかな会社で居心地がとてもよくて楽しいOL時代でした。
◆政治家の妻のイメージと実像
大島の初当選から3年半、平日のスケジュールはだいたい決まっています。朝4時頃に起きて入浴し朝食をとった後、家を出て、大島と一緒に午前6時半から8時まで1時間半、駅でビラを配ります。その後、私は事務所行って、日中は外回りに出ます。夕方、事務所に帰ってきて事務処理をし、自宅に帰るのは午後10時くらいで、寝るのは午前1時くらいです。最初はきつかったですが、今は慣れました。ビラを配らない土日だと多少ゆっくりできます。やはり会社時代のほうが自由でした。自分の給料で好きなものも買えたし、旅行にもよく出かけました。大島が当選してから旅行には一度も行ったことがないし、自分だけの自由な時間もほとんどありません。仕事は大変ですが、政治家の事務所には、会社時代には出会えなかったような個性的な方たちがたくさん来られます。そういう人たちと話していると、今までの自分の常識は実は常識でなかったのだと気付かされることも少なくありません。